廃線調査隊 山野線

国鉄(JR九州)山野線
Yamano Line

昭和63年2月1日廃止

水俣〜栗野間 55.7km

山野線の歴史

大正10年(1921) 9月11日 山野軽便線として栗野〜山野間開通。
大正11年(1922) 9月 2日 山野軽便線を山野線と改称し山野線となる。
昭和 9年(1934) 4月22日 山野西線として水俣〜久木野間開通。同時に山野線・栗野〜山野間は山野東線と改称。
昭和10年(1935) 12月20日 山野東線延伸・山野〜薩摩布計間開通。
昭和12年(1937) 12月12日 未開通の久木野〜薩摩布計間開通で山野線全通。全線通して山野線に改称。
               同日宮之城線も薩摩大口駅まで全通。
昭和62年(1987) 4月 1日 日本国有鉄道民営化。九州旅客鉄道株式会社所属となる。
昭和63年(1988) 1月10日 薩摩大口駅で接続している宮之城線全線廃止。
昭和63年(1988) 2月 1日 山野線全線廃止。

山野線の駅

 山野線は熊本県の鹿児島本線・水俣駅から鹿児島県の肥薩線・栗野駅までの55.7kmを結ぶ全線非電化単線のローカル線だった。山野線の特徴は熊本県と鹿児島県の県境付近の急勾配区間にあるループ線の存在でした。日本でも数少ないループ線は、山岳線区で勾配を少しでも緩和させるため用いられる方法です。沿線は鹿児島県側はシラス台地の火山土が続き、農業に不利な状況で、その他に大きな産業がなくうえに急激に過疎化が進行した。また、昭和40年代以降のモーターリゼーションの影響も受け、旅客、貨物とも減少の一途で、他のローカル線と同じ運命をたどったのである。その後国鉄経営の悪化のため、昭和57年11月に特定地方交通線第二次廃止線区の申請が行われ、昭和59年6月に承認された。地元では第三セクターでの生き残りを掛けたが、黒字経営は無理と判断、鉄道を廃止しバス転換の道を余儀なくされた。
 山野線は昭和63年2月1日をもって鉄道は廃止された。国鉄改革時にはJR九州に経営を移管したが、1年も経たないうちに廃止されてしまった。
 当時の運転車両はキハ52・キハ53の単行運転が基本で朝夕はキハ20・キハ40・キハ58が増結され2〜3両で運転された。

山野線廃止後の状況
 平成12年1月現在の状況ですが、ほとんどの区間で、サイクリングロード・一般道路に転換されています。一部廃線敷きのまま残っている区間もありますが、近年中に道路化される模様です。工事を行っているところがありました。「廃線跡を歩く」(JTB刊)には現役当時の腕木式信号機が残っていると書いてあるが、残っているところはなかった。(記念碑として残しているところはある。)ここ数年で一気に整備が進んでいるらしい。
久木野〜薩摩布計間のループ線区間は線路が残っています。これは数年前までトンネルを利用してシメジの栽培を行っていたためです。全線通して線路が残っているのはこの区間だけです。(駅構内に記念として残しているのは除く)山岳区間に残る廃線敷きは線路のみ撤去され、トンネルなどはそのまま残っている。トンネルは口を塞ぐわけでもなくそのままぽっかりと口を開けている。
 記念碑が設けられている駅もある。中にはホームもそのまま残っているところや、車掌車を記念碑として残しているところもある。
 薩摩大口駅跡に建設された、大口ふれあいセンター4Fには山野線・宮之城線の資料館が設置されている。(入場は無料)

 山野線の廃止後数年は線路などは残っていた。熊本県側の水俣〜久木野間の廃線跡は、廃止後早々に撤去工事が進み、日本一の運動場として整備された。水俣駅起点で19.081kmの日本一の長さを誇る運動場となった。これはサイクリングロードのようなものです。鉄橋などの橋脚はそのまま利用され、鉄道の雰囲気を残している。久木野〜薩摩布計間にはループ線がかつて合ったところであるがループ線の区間には唯一線路が残されており、今にも列車が走ってきそうである。この区間のトンネルを利用し、シメジの栽培をしていたそうです。何故、線路が残っているかと思うでしょう。廃止後の線路をそのまま利用しトロッコでシメジを運んでいたそうです。ループ線の前後にある2箇所のトンネルで栽培していたそうです。しかし、採算がとれないため、今では廃業になったそうです。

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