廃線調査隊 狩勝線

根室本線旧線・通称 狩勝線

(落合〜新得間)27.9km

歴史

狩勝線データ

狩勝線について

 かつて日本三大車窓の一つとして数えられた、根室本線狩勝峠(通称狩勝線)、現在は比較的勾配の緩やかな新線に切り替えられた。札幌と十勝地方を結ぶ主役が石勝線に移ったが、それ以前は滝川経由の根室本線が主役であった。この狩勝峠に鉄道が開通したのは意外と早く、北海道開拓と軍事上の必要から明治34年4月に着工され、明治40年9月8日に十勝線として開通した。その工事は枕木の数ほど犠牲者が出たと言われるほど難航し、特に狩勝隧道(954m)と新内隧道(124m)の堀削工事は、堅い岩盤と湧水のために困難を極め、ついには人柱まで建てて工事の進歩を図ったとも語り継がれている。

 狩勝線は、連続する25‰の急勾配と2つのトンネルがあり、D51の補機を従えた長大な列車が峠に挑む雄大なドラマが展開し、当時の鉄道ファンの心を魅了するのと同時に、日本3大車窓に数えられ、乗客も車窓を楽しんでいた。しかし、鉄道にとっては、急勾配や連続するカーブというのは、やっかいなものであり、当時の鉄道マンの大変さが目に浮かぶものである。当時はまだSLが主力でありトンネルでの煙害も深刻だったそうで、トンネルには煙除けの垂れ幕で煙を防御したそうです。余談ですが、乗客もSLの汽笛を聞き、トンネルに入る前に列車の窓を閉めないと煙で顔が真っ黒になったそうです。

 この区間は、開通当時は十勝線と呼ばれ後に釧路本線、根室本線と名前を変えながらも、道央と道東を結ぶ幹線としての地位を歩んだのである。しかし、冬期間隧道内の漏水は凍結するなど内壁の老朽化も激しく、しかも、千分の25という急勾配が連続する同線は、経済の発展とともに、旅客・貨物輸送の効率化のため、昭和41年10月1日開通の新狩勝線にその役目を譲ることになり、60年の歴史を閉じたのである。

 
実験線として活用
 その後、狩勝線の新得側・新得〜新内間は国鉄の実験線として利用され、貨車の競合脱線のメカニズム解明や、瀬戸大橋を念頭に置いた橋梁のたわみ量の測定など、数々の貴重な実験データーを提供した。今日の鉄道の発展に貢献した。この実験は昭和54年に終了している。

急行「マリモ号」事件の発生。現場にあった掲示版を書き記します。

 昭和26年5月17日、釧路発函館行き・急行4列車(愛称「マリモ号」)は、新得駅午前1時15分、470余名の旅客を乗せ発車、10分後の午前1時25分頃、機関車は激しい衝動とともに脱線し、急停車ブレーキにもかかわらず、約24.8メートル進行し、上新内鉄橋を越え、築堤左側へ機関車は宙吊りの形で横転してしまった。機関士は軽傷を負ったが乗客は幸い全員無事だったそうであった。
 非常連絡により、自治体新得町警察は、直ちに関係方面への応援を求めながら、捜査の結果、左右のレール継目板4枚を金切鋸で切断し、白樺の棒を差し入れ、レールを右側に4センチメートル食い違わせてあったことが、直接の原因と判明した。
戦後における、下山、三鷹、松川の国鉄3大事件及び昭和23年4月の狩勝トンネル争議等の背景もあるためか、捜査は広範囲にわたり、容疑者約600名の調査が行われたが決め手なく、遂に迷宮入りとなる。
 自治体警察の廃止の端緒ともなった不可解な「マリモ号」転覆事故であった。

 ここに新得町史に残る大事件のてん末を記すものである。

                    昭和60年11月  新得町  新得郷土研究会調査

★事故現場あたりに2箇所、マリモ号事件関係の看板があります。

 
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