おがえもん廃線研究所 |
調査時期 平成12年6月 |
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未成線区間 仁宇布〜北見枝幸間 57.5km |
美幸線とは |
工事は美深側から昭和32年(1957)に開始され、美深〜仁宇布間21.2kmが昭和39年(1964)に開業しました。当時、仁宇布には開拓農家が60戸程度しかなく開業当初より赤字になるのは明らかでした。美幸線は北見枝幸・歌登・美深を結ぶのが目的で、全線開通してこそ、使命がはたせるもので、仁宇布までの開通では乗客数の確保が困難でした。
工事は北見枝幸側からも開始され昭和51年(1976)には路盤工事がほとんど終了していました。線路も敷設を完了していたらしいです。しかし、時の国鉄は膨大な赤字を抱えており新線建設の計画に疑問符が打たれました。その上、乗客数の少ない赤字線も廃止の対象になりました。美幸線は営業係数(100円の収入に対してどれぐらい経費がかかるかの指数)が日本一大きい赤字線となってしまいました。そして、昭和55年(1980)に国鉄再建法が公布され、美幸線は建設中の区間を含めて廃止予定線になってしまいました。 地元では廃止反対運動が高まり、これを逆手にとって当時の美深町の町長が「日本一の赤字線」として美幸線の乗車券を東京・銀座で販売したのは有名な話です。 廃止当時の旅客数は皆無に等しく定期利用客が1名だったとの話を聞いたことがあります。
余談ですが、未成線区間に敷設されていたレール類が無駄にならないようということで、青函トンネル建設用に転用されたそうです。当時の地元の住民はこの持ち出し行為に大反対をしたそうです。線路を持ち出されると開通出来なくなるためだそうです。地元の住民にとっては悲願の鉄道だったのでしょう。
北見枝幸で接続する予定の興浜北線も同じく廃止対象になったため、未成区間の開通の夢は断たれてしまいました。興浜北線は美幸線より2ヶ月早い昭和60年7月15日をもって廃止されました。
そして、美幸線も昭和60年(1985)9月17日をもって廃止されました。
廃止後の状況 |
トロッコは軌道自転車(鉄道マンに言わせるとレールスター)という保線用の線路巡回用自転車とでも言える物で、自転車の様なペダルとエンジンが付いています。時速50キロ程度まで出すことは出来ますが、ここでは時速20キロに制限しています。廃線を楽しむにはうってつけの施設です。5月〜10月までの毎日(第一火曜日お休み)に体験することができます。詳しくは後載のページで。 未成線区間も構造物の撤去が進んでますが、橋梁やトンネルの一部が残っています。歌登駅は駅舎など以外の線路が敷設されていたそうですが、一切無くなっており、荒廃した広場になっていました。
北見枝幸駅付近も高架橋が全て出来ていたにも関わらず、いまでは全て撤去されて、道路などに転用されています。
このあと、詳しくレポートします。
美幸線の地図は、国土地理院発行の地形図にしっかり記されています。なんと、仁宇布から先の未成線区間も工費路線として地図に記されています。やはり路盤工事が完了していたからでしょう。地図の年度によっては北見枝幸から志美宇丹までしか工事してない地図もありました。現在発行の2.5万分1の地形図にも線路の表記はありませんが、トンネルや築堤の記号が記されています。ちなみにトロッコ区間は掲載はありません。
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